2015年 08月 27日
TUCDメールマガジン寄稿 ご機嫌まちづくり(2) |
NPO法人東京ユニバーサルデザインコミュニケーターズ(TUDC)のメールマガジンに寄稿した文章を転載します。
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ご機嫌まちづくり (2)まちのトラブル解決策
タイトルとはうらはらに、最後まで読んでも解決策は書いていません。あらかじめお断りしておきます。
ある商店街での話。
そのお店は輸入物のしゃれた小物を扱っていて、店長さんはとても自分の商品に誇りを持っている。
隣には昔からの飲食店があって、そこのおかみさんは気のいい人なんだけれど、マイペース。
飲食店のおかみさんは、店の前の歩道の植え込みを掃除したり、小さな鉢植えを置いたり、きれいにしているけれど、長い間に自分のスペースと公共のスペースがごっちゃになってきて、掃除道具を置いてしまう。
いつもきれいにしているのだから、そのくらいは当然だと思っている。
おしゃれ小物の店長はそれが気に入らない。公共のスペースを個人的に使うとは何事か。こっちは商品を厳選して、店構えにも気を配り、お客さんもセンスの良い人がやってくる。人の店から見えるところに掃除道具を置くなんて異常なことだ、営業妨害だ。だからいつも不機嫌。
それで、つい、隣のおかみさんに言ってしまった。「ここに掃除道具を置かないでください。」
それを聞いたおかみさんは切れた。
後から来て何を言う。これまでもずっとこうして来たし、まちをきれいに保っているのは私だ。あんたがまちに何をしてくれたと言うのだ。
それからはむしろ、これ見よがしに掃除用具を置くようになってしまった。
公共の空間を私有化してはいけないというのは正論で、いわばグローバル・ルール。
なあなあかもしれないが、経緯と実績があるというのは、いわばローカル・ルール。
この二つが混在すると、だいたい問題がこじれてくる。
お互いが違う土俵で考えているので交わるところがない。
おしゃれ小物の店長は、クレームとして商店会長にそれを伝える。
「このまちのモラルはどうなっているんだ」「このような状況がつづけば、訴える」
「飲食店のおかみさんにはマナーを伝えないといけない。なぜ地域で話し合わない」
話し合いの場は、町内会だったり、商店会だったりするだろうが、
そのような場をつくり、維持してきたのは地域のコミュニティである。
おしゃれ小物の店長はそういう場を誰かがつくって、維持してきたことにまでは気が回らない。
だから、町内会や商店会には加入していない。ムダだと思っているが、クレームの行き先にはなる。
さらに、口では「地域で話し合ってくれ」と言うが、まさか話し合いの場で
「今までの経緯もあるので、掃除道具を置くくらい目をつぶりなさい」
と言われる可能性があることは全く考えていない。「話し合え」イコール「止めさせろ」である。
仮に、掃除道具が片付けられたとしても、また次のアラが見えてくる。
公共の場を私的に利用している、という根本が気に入らないのだから、当然である。
一方のおかみさんは慣習による「既得権」は絶対だと思っているから、これまた話し合いでは自分に軍配があがらなければならない。
つまり、第三者の裁定によって目の前のことを処理しても根本の解決にはならないのである。
訴訟社会のアメリカなら裁判だろう。部族社会なら族長の裁定があるかもしれない。
でも、それはお互いが「そういう手続きならとりあえず納得できる」という前提があるからできることである。
今の日本では「コミュニティの中で話し合いによって解決すること」そのものが物事の解決の手続きとして「良し」とする人と「嫌だ」という人に別れはじめている。
行政へのクレーマーの激増はそういうことだろう。
町内会も商店街もあえて「話し合い」をしようとしないのは、それを感じているからだろう。
今のまちづくりでは、トラブル解決策として「コミュニティによる話し合い」が無くなり、無くなったままでそれに代わる手法を見い出していないように思う。
コミュニティによる話し合いは「閉じられた社会」の中ではうまく機能してきた。
しかし、善し悪しはともかく、それではやっていけなくなっている。
ひとびとの気持ちは「閉じられた社会」の中でローカル・ルールでうまくできないかという人と、いろんな価値観がある中でグローバル・ルールでクールにいくべきだ、という人に別れている。そして、どちらにしても極端に走る。
だから一度問題がこじれると「より良く解決する」ことがとても難しい。
「今年の盆踊りは騒音の苦情により中止」になってしまう。
これは解決策ではない。
盆踊りを毎年楽しみにしていた人の気持ちはどこにも反映されていない。
解決策は、当然その中間にあるはずである。
おそらく、私は「まちづくり」でそんなことに取り組んでいるのだろうな、とは思うけれども、具体的なアイデアはまだ持てないでいる。
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ご機嫌まちづくり (2)まちのトラブル解決策
タイトルとはうらはらに、最後まで読んでも解決策は書いていません。あらかじめお断りしておきます。
ある商店街での話。
そのお店は輸入物のしゃれた小物を扱っていて、店長さんはとても自分の商品に誇りを持っている。
隣には昔からの飲食店があって、そこのおかみさんは気のいい人なんだけれど、マイペース。
飲食店のおかみさんは、店の前の歩道の植え込みを掃除したり、小さな鉢植えを置いたり、きれいにしているけれど、長い間に自分のスペースと公共のスペースがごっちゃになってきて、掃除道具を置いてしまう。
いつもきれいにしているのだから、そのくらいは当然だと思っている。
おしゃれ小物の店長はそれが気に入らない。公共のスペースを個人的に使うとは何事か。こっちは商品を厳選して、店構えにも気を配り、お客さんもセンスの良い人がやってくる。人の店から見えるところに掃除道具を置くなんて異常なことだ、営業妨害だ。だからいつも不機嫌。
それで、つい、隣のおかみさんに言ってしまった。「ここに掃除道具を置かないでください。」
それを聞いたおかみさんは切れた。
後から来て何を言う。これまでもずっとこうして来たし、まちをきれいに保っているのは私だ。あんたがまちに何をしてくれたと言うのだ。
それからはむしろ、これ見よがしに掃除用具を置くようになってしまった。
公共の空間を私有化してはいけないというのは正論で、いわばグローバル・ルール。
なあなあかもしれないが、経緯と実績があるというのは、いわばローカル・ルール。
この二つが混在すると、だいたい問題がこじれてくる。
お互いが違う土俵で考えているので交わるところがない。
おしゃれ小物の店長は、クレームとして商店会長にそれを伝える。
「このまちのモラルはどうなっているんだ」「このような状況がつづけば、訴える」
「飲食店のおかみさんにはマナーを伝えないといけない。なぜ地域で話し合わない」
話し合いの場は、町内会だったり、商店会だったりするだろうが、
そのような場をつくり、維持してきたのは地域のコミュニティである。
おしゃれ小物の店長はそういう場を誰かがつくって、維持してきたことにまでは気が回らない。
だから、町内会や商店会には加入していない。ムダだと思っているが、クレームの行き先にはなる。
さらに、口では「地域で話し合ってくれ」と言うが、まさか話し合いの場で
「今までの経緯もあるので、掃除道具を置くくらい目をつぶりなさい」
と言われる可能性があることは全く考えていない。「話し合え」イコール「止めさせろ」である。
仮に、掃除道具が片付けられたとしても、また次のアラが見えてくる。
公共の場を私的に利用している、という根本が気に入らないのだから、当然である。
一方のおかみさんは慣習による「既得権」は絶対だと思っているから、これまた話し合いでは自分に軍配があがらなければならない。
つまり、第三者の裁定によって目の前のことを処理しても根本の解決にはならないのである。
訴訟社会のアメリカなら裁判だろう。部族社会なら族長の裁定があるかもしれない。
でも、それはお互いが「そういう手続きならとりあえず納得できる」という前提があるからできることである。
今の日本では「コミュニティの中で話し合いによって解決すること」そのものが物事の解決の手続きとして「良し」とする人と「嫌だ」という人に別れはじめている。
行政へのクレーマーの激増はそういうことだろう。
町内会も商店街もあえて「話し合い」をしようとしないのは、それを感じているからだろう。
今のまちづくりでは、トラブル解決策として「コミュニティによる話し合い」が無くなり、無くなったままでそれに代わる手法を見い出していないように思う。
コミュニティによる話し合いは「閉じられた社会」の中ではうまく機能してきた。
しかし、善し悪しはともかく、それではやっていけなくなっている。
ひとびとの気持ちは「閉じられた社会」の中でローカル・ルールでうまくできないかという人と、いろんな価値観がある中でグローバル・ルールでクールにいくべきだ、という人に別れている。そして、どちらにしても極端に走る。
だから一度問題がこじれると「より良く解決する」ことがとても難しい。
「今年の盆踊りは騒音の苦情により中止」になってしまう。
これは解決策ではない。
盆踊りを毎年楽しみにしていた人の気持ちはどこにも反映されていない。
解決策は、当然その中間にあるはずである。
おそらく、私は「まちづくり」でそんなことに取り組んでいるのだろうな、とは思うけれども、具体的なアイデアはまだ持てないでいる。
by phoosuken
| 2015-08-27 15:22
| 日々雑感(F)