2015年 11月 12日
ご機嫌まちづくり まちづくりの中の時間軸 |
以前書いたブログの記事を、TUDCの会報用にリライトしました。
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だいぶ前のことだが、脳科学者の茂木健一郎さんがTwiiterでちょっとめげていたことがあった。
Facebookのユルさが不満だったが、Twitterのスピード感に疲れてくると、ある意味マイナーな私的領域、概念的なことをゆっくり育むために、facebookの暖かいコミュニティが必要だと感じる、というような趣旨だった。
ああ、よほど嫌なことがあったんだなあ、と思ったが、その時に茂木さんが、Twitterのスピード感を「市場性」という言葉を使って表現していたのが印象的だった。
Twitterが「市場性」でFacebookが「関係性」だ、というような短絡的なことを言いたい訳ではないのだが、この二つの媒体の違いは、少しわかったような気がした。
時々、第三者からものすごい負のエネルギーをぶつけられてめげそうになることがある。
そういう人の特徴は、損得や効率、短時間での成果、勝ち負けにこだわるということにあるような気がする。
攻撃する相手は誰でもよく「私はそう思う」ではなく、「(一般的に)お前はおかしいだろ」というように相手を追いつめていく。
「私」がなくなり、匿名性を帯びてくる。
匿名の関係の中で、短時間のスピードあるやり取りで時間をどんどん凝縮し、即効性のある成果を出していく。
これを「市場性」だというと反論する人もいるかもしれない。
しかし、市場の本質は時間の短縮と「誰がやっても同じ」という普遍性にある。
このようなやり方を刺激的で面白いと感じる人がいることは事実だろう。
でも、人の精神は本来、そういうことに長くは対応できない。
少なくとも私は、そういうことに必要以上のエネルギーを費やしたくない。
もう少し身体的な、その人の顔が見えるところでゆっくりとした「関係性」を組み立て、その中から何かを生み出していくことに時間を費やしたい。
「時間軸」という概念があるかないかは、まちづくりの中でとても重要なポイントである。
学生時代、先輩が後輩におごるという体育会的ルールがあった。(今も吉本はそうらしい)
後輩は先輩になると、またその時の後輩におごる。
これを聞いた私の兄は、なんという非効率なことをやっているのかと言った。
おごってもらっても、どうせ後で後輩におごるなら、割り勘でその場で処理した方がよほど合理的ではないか。
お金の流れだけみればそうだろう。
でも、ある人がおごってもらい、おごられた分を次の世代におごる流れの中には、お金以上にそこに一つの関係性や流れができる。
おごってもらった人と、おごられた人の関係は、時間を超えて別の人につながっていく。
だから何なのだ、と言われても困るが、この流れが大切なのではないかと思う。
ある出来事がその人にどのように影響を与え、どう熟成されて変化していくのか。正直それはどうなるのか誰にもわからない。
まちづくりでもそれは同じである。ある動きが、そのまちにどのように影響を与えるのか、ある程度の仮説はもちろんあるけれども、最初からはっきり成果がわかってやっているわけではない。
あるインプットが、どこかで熟成されて、思わぬ成果となって現れるかもしれない。
インプットから得られる成果を「待つ」ことがまちづくりの基本ではないかと思うのである。
ちょっと理屈っぽくなったけど、このわからなさを「面白い」と思えるか「じれったい」と思うかは大きな違いであると思っている。
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だいぶ前のことだが、脳科学者の茂木健一郎さんがTwiiterでちょっとめげていたことがあった。
Facebookのユルさが不満だったが、Twitterのスピード感に疲れてくると、ある意味マイナーな私的領域、概念的なことをゆっくり育むために、facebookの暖かいコミュニティが必要だと感じる、というような趣旨だった。
ああ、よほど嫌なことがあったんだなあ、と思ったが、その時に茂木さんが、Twitterのスピード感を「市場性」という言葉を使って表現していたのが印象的だった。
Twitterが「市場性」でFacebookが「関係性」だ、というような短絡的なことを言いたい訳ではないのだが、この二つの媒体の違いは、少しわかったような気がした。
時々、第三者からものすごい負のエネルギーをぶつけられてめげそうになることがある。
そういう人の特徴は、損得や効率、短時間での成果、勝ち負けにこだわるということにあるような気がする。
攻撃する相手は誰でもよく「私はそう思う」ではなく、「(一般的に)お前はおかしいだろ」というように相手を追いつめていく。
「私」がなくなり、匿名性を帯びてくる。
匿名の関係の中で、短時間のスピードあるやり取りで時間をどんどん凝縮し、即効性のある成果を出していく。
これを「市場性」だというと反論する人もいるかもしれない。
しかし、市場の本質は時間の短縮と「誰がやっても同じ」という普遍性にある。
このようなやり方を刺激的で面白いと感じる人がいることは事実だろう。
でも、人の精神は本来、そういうことに長くは対応できない。
少なくとも私は、そういうことに必要以上のエネルギーを費やしたくない。
もう少し身体的な、その人の顔が見えるところでゆっくりとした「関係性」を組み立て、その中から何かを生み出していくことに時間を費やしたい。
「時間軸」という概念があるかないかは、まちづくりの中でとても重要なポイントである。
学生時代、先輩が後輩におごるという体育会的ルールがあった。(今も吉本はそうらしい)
後輩は先輩になると、またその時の後輩におごる。
これを聞いた私の兄は、なんという非効率なことをやっているのかと言った。
おごってもらっても、どうせ後で後輩におごるなら、割り勘でその場で処理した方がよほど合理的ではないか。
お金の流れだけみればそうだろう。
でも、ある人がおごってもらい、おごられた分を次の世代におごる流れの中には、お金以上にそこに一つの関係性や流れができる。
おごってもらった人と、おごられた人の関係は、時間を超えて別の人につながっていく。
だから何なのだ、と言われても困るが、この流れが大切なのではないかと思う。
ある出来事がその人にどのように影響を与え、どう熟成されて変化していくのか。正直それはどうなるのか誰にもわからない。
まちづくりでもそれは同じである。ある動きが、そのまちにどのように影響を与えるのか、ある程度の仮説はもちろんあるけれども、最初からはっきり成果がわかってやっているわけではない。
あるインプットが、どこかで熟成されて、思わぬ成果となって現れるかもしれない。
インプットから得られる成果を「待つ」ことがまちづくりの基本ではないかと思うのである。
ちょっと理屈っぽくなったけど、このわからなさを「面白い」と思えるか「じれったい」と思うかは大きな違いであると思っている。
by phoosuken
| 2015-11-12 08:52
| 日々雑感(F)