まちづくりの店プレイスの日々レポート
by phoosuken
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2016年 04月 01日

ご機嫌まちづくり まち中での出会い

NPO法人TUDC(東京ユニバーサルデザインコミュニケーターズ)の会報用の記事を転載します。

******
打ち合わせに急ぐ私が乗ろうとしたタクシーの運転手さんは、路肩に駐車したまましばらくの間携帯電話で話しをしていて、私に気づくのが遅れたようで
「申し訳ありません、離れた息子から久々に電話があったので」
と言って、タクシーのドアを開けた。

「お客さん、建築関係の方ですか?」
移動中に、職業を尋ねられた。
「いや、建築ではなく、まちづくりの仕事をしています」
私が持っている大きな図面用の筒を見て、そう思ったらしい。
「お客さん、最初からずっと今の仕事をしてきましたか?」
「いや、もとはデザインの大学を出たんですけど、仕事はちょっと変わったところに入りました」
「でも、大きく言えば、同じ方向ですよね」
「まあ、そうですね。」
「挫折なく、きたんですね」
「挫折ですか? いやあそんな順調というわけではないです。途中止めようと思ったこともありますよ。でも、結局この仕事でやってます。」

タクシーの運転手さんはいろんな人を見ている。私をなぜか、しっかりした職業の人と思ったそうだ。
「さっき電話していたのは、息子なんです。大学生なんだけど、ちょっと挫折しちゃったみたいで。久々に向こうから電話があったので、すみませんでした」
「息子さん何をやっていらっしゃるんですか」
「京都で大学生をやってます。数学が得意で、大学に入るまでは全国でもトップクラスの成績でした」
「優秀なんですね。大学はどちらですか」
「京都大学です。でも、大学に入ったら上には上がいる。数学者になりたかったのですが、自分には無理ではないかと思い始めたらしいです」

「すごい話ですね。運転手さんも何かやってらしたことがあるんですか」
そんな優秀な息子さんがいるタクシーの運転手さんとは何者だろうか、と思って聞いてみた。
「実は私も以前北海道大学で数学を教えてたことがあります。大学をやめて小さな商社をやってましたが、リーマンショックを機に、まだ体力があるうちにと思い、会社をたたみました」
「ほお」
「小金があるので、いつか事業をと思っていたのですが、タクシーの運転手も真面目にやってれば食べていけます。気が付いたら10年運転手やってます」
「なんかすごい話ですね」
「私も模試レベルでは全国でトップとったこともあります。でも数学者になるのはレベルが違います。息子は私よりも数学のセンスはあると思うのですが、難しいみたいです」
そんな話をしているうちに、目的地に到着したので、お金を払ってタクシーを降りた。

まちの中にはまたまだいろんな楽しさが溢れている。

たまたま隣に居合わせた人、飲食店で相席になった人、バス待ちをしてている人。海外に行くと、気さくに話しかけてくる人が多い。
本当は、短い時間でも知らない人との会話を楽しめると良いのだけど、なかなかうまく話せない。面白い話ができる機会を失しているかと思うとちょっと残念に思うのである。
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# by phoosuken | 2016-04-01 09:27
2015年 11月 12日

ご機嫌まちづくり まちづくりの中の時間軸

以前書いたブログの記事を、TUDCの会報用にリライトしました。

____
だいぶ前のことだが、脳科学者の茂木健一郎さんがTwiiterでちょっとめげていたことがあった。

Facebookのユルさが不満だったが、Twitterのスピード感に疲れてくると、ある意味マイナーな私的領域、概念的なことをゆっくり育むために、facebookの暖かいコミュニティが必要だと感じる、というような趣旨だった。

ああ、よほど嫌なことがあったんだなあ、と思ったが、その時に茂木さんが、Twitterのスピード感を「市場性」という言葉を使って表現していたのが印象的だった。

Twitterが「市場性」でFacebookが「関係性」だ、というような短絡的なことを言いたい訳ではないのだが、この二つの媒体の違いは、少しわかったような気がした。

時々、第三者からものすごい負のエネルギーをぶつけられてめげそうになることがある。
そういう人の特徴は、損得や効率、短時間での成果、勝ち負けにこだわるということにあるような気がする。

攻撃する相手は誰でもよく「私はそう思う」ではなく、「(一般的に)お前はおかしいだろ」というように相手を追いつめていく。

「私」がなくなり、匿名性を帯びてくる。
匿名の関係の中で、短時間のスピードあるやり取りで時間をどんどん凝縮し、即効性のある成果を出していく。

これを「市場性」だというと反論する人もいるかもしれない。
しかし、市場の本質は時間の短縮と「誰がやっても同じ」という普遍性にある。
このようなやり方を刺激的で面白いと感じる人がいることは事実だろう。

でも、人の精神は本来、そういうことに長くは対応できない。
少なくとも私は、そういうことに必要以上のエネルギーを費やしたくない。

もう少し身体的な、その人の顔が見えるところでゆっくりとした「関係性」を組み立て、その中から何かを生み出していくことに時間を費やしたい。

「時間軸」という概念があるかないかは、まちづくりの中でとても重要なポイントである。

学生時代、先輩が後輩におごるという体育会的ルールがあった。(今も吉本はそうらしい)
後輩は先輩になると、またその時の後輩におごる。
これを聞いた私の兄は、なんという非効率なことをやっているのかと言った。

おごってもらっても、どうせ後で後輩におごるなら、割り勘でその場で処理した方がよほど合理的ではないか。
お金の流れだけみればそうだろう。

でも、ある人がおごってもらい、おごられた分を次の世代におごる流れの中には、お金以上にそこに一つの関係性や流れができる。
おごってもらった人と、おごられた人の関係は、時間を超えて別の人につながっていく。
だから何なのだ、と言われても困るが、この流れが大切なのではないかと思う。

ある出来事がその人にどのように影響を与え、どう熟成されて変化していくのか。正直それはどうなるのか誰にもわからない。

まちづくりでもそれは同じである。ある動きが、そのまちにどのように影響を与えるのか、ある程度の仮説はもちろんあるけれども、最初からはっきり成果がわかってやっているわけではない。

あるインプットが、どこかで熟成されて、思わぬ成果となって現れるかもしれない。
インプットから得られる成果を「待つ」ことがまちづくりの基本ではないかと思うのである。

ちょっと理屈っぽくなったけど、このわからなさを「面白い」と思えるか「じれったい」と思うかは大きな違いであると思っている。
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# by phoosuken | 2015-11-12 08:52 | 日々雑感(F)
2015年 08月 30日

続 五輪エンブレム

前のブログで、

>今までのさまざまなインプットの上に、その本人を通して組み直された、最後に付け加えられた「何か」によって人に何らかの影響力を与えること、これがオリジナリティだろう。

と書いて、このこと自体は今でもそう思っているけれど、今回出てきたヤン・チョヒルトのタイポグラフィはちょっとまずい感じだ。

展覧会で見たデザインの印象が強烈に残っていて、それが無意識のうちに今回のデザインのベースになったとしても、最初のデザインを見てから佐野氏のデザインを見ると、加えた「オリジナリティ」が、元のデザインにのみ込まれて、新しい「何か」が感じられない。

積み上げから新しいものが生まれるのはあたりまえだが、新しいものを「創る」ことに対して安易になりすぎていないか、自戒を込めて考えさせられる。

ところで、ヤン・チョヒルトは知らなかったけど、展覧会のチラシやフラッグはカッコイイ。

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# by phoosuken | 2015-08-30 15:57 | 日々雑感(F)
2015年 08月 28日

五輪エンブレム

オリジナリティとは何か。
人はすべてこれまでのインプットの蓄積のもとで考えている。

完全なオリジナルはない。
文章を書いていても、意見を言っていても完全なオリジナルなんかない。
コピペは論外として、一度自分の中に取り込まれた情報が、自分の中で融合すると
どこかで聞いた、どこかで読んだ文章なのか自分の文章なのか、時にわからなくなる。
それがあたりまえである。

文章とデザインは違う? そう言われるなら、スミマセン、よくわかりませんと答えるしかないが、
大切なのは完成したその作品として何を伝えるか、何が伝わるか、だろう。

あえていえば、今までのさまざまなインプットの上に、その本人を通して組み直された、最後に付け加えられた「何か」によって人に何らかの影響力を与えること、これがオリジナリティだろう。

今回の五輪エンブレムと、ベルギーの劇場のデザインは似て非なるものと感じるが、
あくまでも商業上のルールとして議論するならすれば良い。それはそれでルールに従って処理するしかない。

でも、今回のエンブレムは悪くないと思うけど(言っちゃった)。
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# by phoosuken | 2015-08-28 19:29 | 日々雑感(F)
2015年 08月 27日

TUCDメールマガジン寄稿 ご機嫌まちづくり(2)

NPO法人東京ユニバーサルデザインコミュニケーターズ(TUDC)のメールマガジンに寄稿した文章を転載します。

**********************************
ご機嫌まちづくり (2)まちのトラブル解決策

タイトルとはうらはらに、最後まで読んでも解決策は書いていません。あらかじめお断りしておきます。

ある商店街での話。

そのお店は輸入物のしゃれた小物を扱っていて、店長さんはとても自分の商品に誇りを持っている。
隣には昔からの飲食店があって、そこのおかみさんは気のいい人なんだけれど、マイペース。

飲食店のおかみさんは、店の前の歩道の植え込みを掃除したり、小さな鉢植えを置いたり、きれいにしているけれど、長い間に自分のスペースと公共のスペースがごっちゃになってきて、掃除道具を置いてしまう。
いつもきれいにしているのだから、そのくらいは当然だと思っている。

おしゃれ小物の店長はそれが気に入らない。公共のスペースを個人的に使うとは何事か。こっちは商品を厳選して、店構えにも気を配り、お客さんもセンスの良い人がやってくる。人の店から見えるところに掃除道具を置くなんて異常なことだ、営業妨害だ。だからいつも不機嫌。

それで、つい、隣のおかみさんに言ってしまった。「ここに掃除道具を置かないでください。」

それを聞いたおかみさんは切れた。
後から来て何を言う。これまでもずっとこうして来たし、まちをきれいに保っているのは私だ。あんたがまちに何をしてくれたと言うのだ。
それからはむしろ、これ見よがしに掃除用具を置くようになってしまった。

公共の空間を私有化してはいけないというのは正論で、いわばグローバル・ルール。
なあなあかもしれないが、経緯と実績があるというのは、いわばローカル・ルール。

この二つが混在すると、だいたい問題がこじれてくる。
お互いが違う土俵で考えているので交わるところがない。

おしゃれ小物の店長は、クレームとして商店会長にそれを伝える。
「このまちのモラルはどうなっているんだ」「このような状況がつづけば、訴える」
「飲食店のおかみさんにはマナーを伝えないといけない。なぜ地域で話し合わない」

話し合いの場は、町内会だったり、商店会だったりするだろうが、
そのような場をつくり、維持してきたのは地域のコミュニティである。

おしゃれ小物の店長はそういう場を誰かがつくって、維持してきたことにまでは気が回らない。
だから、町内会や商店会には加入していない。ムダだと思っているが、クレームの行き先にはなる。

さらに、口では「地域で話し合ってくれ」と言うが、まさか話し合いの場で
「今までの経緯もあるので、掃除道具を置くくらい目をつぶりなさい」
と言われる可能性があることは全く考えていない。「話し合え」イコール「止めさせろ」である。

仮に、掃除道具が片付けられたとしても、また次のアラが見えてくる。
公共の場を私的に利用している、という根本が気に入らないのだから、当然である。

一方のおかみさんは慣習による「既得権」は絶対だと思っているから、これまた話し合いでは自分に軍配があがらなければならない。

つまり、第三者の裁定によって目の前のことを処理しても根本の解決にはならないのである。

訴訟社会のアメリカなら裁判だろう。部族社会なら族長の裁定があるかもしれない。
でも、それはお互いが「そういう手続きならとりあえず納得できる」という前提があるからできることである。

今の日本では「コミュニティの中で話し合いによって解決すること」そのものが物事の解決の手続きとして「良し」とする人と「嫌だ」という人に別れはじめている。

行政へのクレーマーの激増はそういうことだろう。
町内会も商店街もあえて「話し合い」をしようとしないのは、それを感じているからだろう。

今のまちづくりでは、トラブル解決策として「コミュニティによる話し合い」が無くなり、無くなったままでそれに代わる手法を見い出していないように思う。

コミュニティによる話し合いは「閉じられた社会」の中ではうまく機能してきた。
しかし、善し悪しはともかく、それではやっていけなくなっている。

ひとびとの気持ちは「閉じられた社会」の中でローカル・ルールでうまくできないかという人と、いろんな価値観がある中でグローバル・ルールでクールにいくべきだ、という人に別れている。そして、どちらにしても極端に走る。

だから一度問題がこじれると「より良く解決する」ことがとても難しい。
「今年の盆踊りは騒音の苦情により中止」になってしまう。

これは解決策ではない。

盆踊りを毎年楽しみにしていた人の気持ちはどこにも反映されていない。
解決策は、当然その中間にあるはずである。

おそらく、私は「まちづくり」でそんなことに取り組んでいるのだろうな、とは思うけれども、具体的なアイデアはまだ持てないでいる。
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# by phoosuken | 2015-08-27 15:22 | 日々雑感(F)
2015年 08月 22日

Novel 11, Book 18

Novel 11, Book 18 
ダーグ・ソールスター、 村上 春樹 訳

ノルウェイについて知っていることはほとんどなかった。ビートルズの曲。村上春樹の小説。福祉国家。オスロ・・・

この小説の中から知ったノルウェイについての新しい知識。
徴兵制がある。鉄道をわりと普通に使っている。地方の収入役は徴税に関して強い権限を持っている。街と自然が近くて、日曜日は自然の中を散歩して、夕方から友人と食事をする。仲間が集まってアマチュア劇団をつくり、仕事が終わると稽古をして年に1回講演をすることがあたりまえのように語られるライフスタイルがある。

主人公のビョーン・ハンセンは男の子一人を残して妻と離婚する。ツーリー・ラッメルスという魅力的な女性と暮らすために。物語の冒頭は、ビョーン・ハンセンがツーリーと別れたところから始まり、ツーリーとの生活を振り返っていく。
ビョーン・ハンセンは今となっては、なぜそれほどツーリーに惹かれたのか思い出せない。「冒険」への脅迫観念という動機が語られるが、ツーリーとの生活は単調なものである。中央の官庁での出世を諦めて、地方の収入役の仕事を得て黙々と仕事をこなし、アマチュア劇団で稽古をする。
いろいろな出来事について、主人公の心の内を淡々と描きながら進み、そしていきなり(と私は感じた)物語は終わる。

この物語は誰の視点で描かれているのだろうか。日本の小説では湿っぽい感じで語られがちな一人称の「葛藤」のようなものが、とてもクールに、突き放したように三人称で扱われていることに少しほっとして、ドキドキしながらも、何というか「安心して」読み進むことができた。もしかしたら古典的な手法なのかもしれないが、文学論に詳しいわけではない私には新鮮に感じらた。

村上春樹の訳者あとがきには「とにかく不思議な小説だというのが、読み終えて本を閉じたあとの僕の偽らざる感想だった。」とある。そうなのか。プロが読んでも不思議なんだ。

村上春樹の翻訳は読みやすくて好きだけど、もしかしたら、村上春樹のテイストが入っているのかもしれない。原文の持つ雰囲気がどこまで忠実に反映されているのかは分からないけれど、どっちでもいいや。
原文で読むことは一生あり得ないし、物語としてとても楽しめたからそれで十分である。とても感謝している。
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# by phoosuken | 2015-08-22 18:06 | 書評
2015年 07月 22日

ご機嫌まちづくり

NPO法人東京ユニバーサルデザインコミュニケーターズのメールマガジンに投稿した内容です。


<まちづくりとは何だろうか>
このところ、あらためて「まちづくりとは何か?」を考えている。
ハードな「街づくり」はまだ分かるけれど、ひらがなで「まちづくり」という時に人が考える内容は千差万別である。

まちには、いろんな立場の人がごっちゃに暮らしている。
そんな「まち」を、誰がどのように「つくる」のだろうか。

これが当面の私のテーマである。

<まちはいざという時のセーフティーネット>
生まれた場所でずっと住み続けている人がいる。一方で、自分でそこを選んで住んだという人もいる。

日本では幸いなことに「まち」は選んで住むことができる。
なんとなくここが気に入った、と思って住む場所を選ぶことができる。
近くに公園があったり、にぎやかな商店街があったり、雑誌で見た「住んでみたいまち」の上位に選ばれているエリアだったり、選ぶ基準は人それぞれだろう。

でも、お気に入りの場所を選んだとしても、近所の人や地域の人を、個別に選ぶことはできない。
気に入った人とばかりつきあっていくわけにもいかない。
「ご近所」は、何かあったときの運命共同体になる可能性が高いからである。

まちというのは、人の生活の基盤である。良い時ばかりではない。
危機になった時にも、そのまちで住み続けていられなければ、まちの意味がない。
一番わかりやすいのは震災の時だろう。

自分だけ、家族だけでは乗り越えられない危機に直面したときにも、まちはセーフティーネットとして機能しなければならない。
村八分はの残りの二分は、火事と葬儀であることはよく知られている。昔の人も地縁から完全に排除することはしなかったのである。

そのようなまちをどうつくっていくのか。
これは永遠のテーマである。

<ご機嫌度数でまちを測る>
話は少し変わる。
良いまちとは何か、という指標にはいろいろあるだろうが「ご機嫌度数」というものを考えてみた。

そのまちに住む人の、ご機嫌はプラスに働き、不機嫌はマイナスに働く。
その合計点で、まちの「ご機嫌度数」がわかる。
これが、もし数値化できたら面白い。

少数のお金持ちがご機嫌であっても、他の多くの人が不機嫌なまちは、あまり住みたくない。
お金持ちのご機嫌度数が高いかどうかもあやしい。いつも財産を狙われていると考えているかもしれない。

ご機嫌も不機嫌も、人に伝播する。ご機嫌度数の高いまちは、さらに度数が高まる傾向にあるだろう。

あれ、何かご機嫌度数が下がってきたぞ・・注意報発生だ。みんなでお祭りでもやろうか。
みんな楽しそうだ。度数が上がってきた。
しまった、「うるさい」って、沿道の人のご機嫌度数が下がっちゃった。

これって「ご機嫌度数」という指標はなくても、結構普段からやってませんか。

<無関心はご機嫌度数を下げる>
人は常にご機嫌ではいられないが、いつも不機嫌でもいられない。
だから、皆ががお互いのご機嫌度を上げるようにして、総体としての度数を上げことが必要だ。
基本は、自分のご機嫌度を上げながら、他の人のご機嫌度も上げていくこと。
人の顔色ばかり見ていることになれば「私のご機嫌度」が下がってしまう。

一人の人が感じられるご機嫌度の上限はたかが知れている。
本質は、食って、寝て、遊んで、働いて、その中での範囲である。
だから、まち全体のご機嫌度数を上げる一番の方法は、突出したご機嫌さんを一人つくるより、
できるだけ多くの人のご機嫌度を全体として底上げしていくことであることは、感覚的には異論がないだろう。

そして、実は、機嫌が良いか悪いかは、基本的に他者との関係においてである。
人は他の人に存在を認めてもらうことでしか、自分の存在を実感できない。
異論がある人もいるかもしれないが、私はそう思う。
一番まずいのは、他者に対する、まちに対する「無関心」だということがわかってくる。

<ご機嫌まちづくり>
まちには生まれたばかりの赤ちゃんから100歳を超える高齢者まで色々な人が住んでいる。
色々な能力や特徴の人が住んでいる。全員がまちのフルメンバーである。
その「ご機嫌度数」を総体としてどう上げていったら良いのだろうか。
TUDCのメールマガジンの場を借りて、こんなことを考えていけたら、と思う。
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# by phoosuken | 2015-07-22 09:53 | 日々雑感(F)
2012年 12月 20日

牧之原市の津波防災まちづくり

今、静岡県牧之原市で、津波防災まちづくり計画の作成支援をしています。
ワークショップ形式で議論をしていますが、ネット上のプラットフォームを立ち上げ、SNSを使った議論も取り入れています。
http://c016.co-hints.spigit.com/Page/Home
ぜひ一度ご覧下さい。
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# by phoosuken | 2012-12-20 10:25 | 地域情報