日々プレイス
2016-10-02T08:28:20+09:00
phoosuken
まちづくりの店プレイスの日々レポート
Excite Blog
「『エコロジカル・デモクラシー』を実践的に読む」勉強会に参加しました
http://basyoken.exblog.jp/26139556/
2016-09-29T09:34:00+09:00
2016-09-30T15:04:15+09:00
2016-09-29T09:34:12+09:00
phoosuken
日々雑感(F)
2016.9.28
エコロジカル・デモクラシー財団(設立準備中)が主催する
「『エコロジカル・デモクラシー』を実践的に読む」勉強会に参加してきた。
とても刺激的で、脳の中に新しい空気が送り込まれたような2時間だった。
『エコロジカル・デモクラシー』はアメリカのプランナーRandolph T. Hesterの著書である『Design for Ecological Democracy 』を東工大の土肥さんが翻訳し、鹿島出版会から来年7月に発行予定の本である。
「実践的に読む」というお題どおり、エコロジカル・デモクラシーという新しい概念の理解を促すために、三つの実践的な取り組みが紹介された。
面白かったのは、事例の選定である。
一つは、アメリカ、ロサンゼルスでの自然公園再生の取り組み。
一つは、世田谷での取り組みで、切られてしまった街の木(普通はゴミとして処分される)をものづくりの素材として活用する「まちの木をいかすものづくりの会」
そしてもう一つは、人が直面した身近な人の死や喪失をグリーフととらえ、それに寄り添う活動をする「グリーフサポートせたがや」の取り組みである。
L.A.の事例は、郊外の自然公園整備にあたり、住民投票により建設中のハイウェイを中止し、市が買い取ってマウンテンライオンを呼び戻すほどの自然環境を再生させたとのことである。
市民の理解を得るために、ダウンタウンの高校生を対象としたエクスカーションを実施して賛同者を広げていった。その活動はダウンタウンの荒廃した資材置き場を公園に再生する取り組みに展開していったという。
日本人からみると妬ましい程のダイナミックで民主主義の見本のような方法はとても「アメリカ的」に見える。
勉強会ゲストの饗庭さん(首都大学東京)は、L.A.の取り組みに対して、アメリカという社会的な基盤があって成立したもので、日本にそのまま当てはまるのか、とあえて指摘しており、それは私もそう感じた。
一方、日本の二つの取り組みは少し違っている。
身近な「自然」と「社会」との関係を構築するために、個人レベルからはじまって周囲の仲間を巻き込んで活動を続けているささやかな取り組みである。
「まちのも」はそこにあきらかに自然の要素である樹木が介在するので理解しやすいが「グリーフサポートせたがや」は良い意味で混乱した。
そこで私が気になったのはエコロジカル・デモクラシーの基本にある
自然を直すと社会が治る
社会を直すと自然が治る
という考え方である。
この「直す」という表現が気になった。
気になったというのは悪い意味ではない。文字通り、気になったのである。
何だろう。何をもってして直すというのだろうか。
そこで、あらためてグリーフサポートの取り組みを見ると、
まちの中には「かなしみ」があきらかに存在する。それを個人レベルで押し込めておくことはその人個人の損傷であると同時に、今の社会のさまざまな問題の根源にもなる。閉じこめられた「かなしみ」はある時周囲への憎しみや怒りという負のエネルギーとなって噴出してくる。
「かなしみ」の存在を認め、そっと見守り、支える。
このことによって「かなしみ」は「かなしみ」としてそのままに、しかしコミュニティで共有できる問題として次第にその社会に溶け込んでいく。
まちの木は、切られてしまえばゴミである。
まちの木に込められた人々の「想い」の行き場はどこにもない。
道具や家具となって再生された素材としての木は、人々の生活を豊にすることによって、再びその存在が社会の中に居場所が与えられる。
このことを「直す」「治る」と表現することはものすごく共感できる。
これらの事例が「エコロジカル・デモクラシー」というのは、ものすごく共感できる。
L.A.の事例も大きな意味では、自然の一部としての人、モノ、社会を再度見直すということでは同じなのかもしれない。
しかし、その規模、支える社会の仕組みが大きく異なっているので、その理解が(私には)まだ追いつかない。
【今後さらに学びたいこと】
ここで「アメリカ的」「日本的」あるいは「世田谷的」ということをもう少し考えてみたくなった。
私の考える日本的は、日本という場所で行われている活動という意味である。
世田谷的ということも同じで、世田谷という場で行われる活動は、すべて「世田谷的」である。これはあたり前で、世田谷という風土で、世田谷に住む人の活動はすべて「世田谷的」であり、それを何かの言葉で抽象化することに意味があるかどうかが、よくわからない。
しかし、事例にもあったように、自然と人とものの関係をひとつのサイクルの中に整合させるという考え方は、もしかしたら「日本的」なのかもしれない。
それを私は「成仏」と表現したい衝動にかられる。これはいささか唐突で、ほとんどの人に理解されないだろうが、ここで言う「成仏」は宗教的な厳密性はともかくとして、私は「人や物を自然の摂理の中に回帰する」という意味で使っている。
社会を支える制度が彼我で異なることを「単に」と表現してよいのだろうか。そこには考え方の根本の違いがあるのか、あるいはないのか・・
次にもう少し勉強したいと感じたのは
Randolphの言葉として土肥さんが紹介した「公正さ」である。
ある場所の快復は社会全体で担い、その成果も共有すべきものであり、限られた人のためのものであってはならない。
しかし、私自身を振り返ってみると、身近なコミュニティしか実感できないという事実がある。半径10mとはいわないが、100m程度のコミュニティは実感できても、10km離れたコミュニティを実感することは難しい。
その範囲はどこまでなのだろうか。全人類というのは、理念ではあっても実感ではない。
さらにもうひとつは「デザイン」である。
後半にすこしその話題になったが、もう少し突っ込んで議論してみたい。
饗庭さんは、日本の都市における場のデザインのあり方として
「何の変哲もない家の扉を開けると新しい世界が見える」と表現していた。
コミュニティを細分化していくのは「日本的」といえるのかもしれない。
タコツボ化していくことは、そこで暮らす人には楽かもしれないが、社会全体の活性化にはつながりにくい。
その特性を活かしつつ、そこから再度外に広げて行くために、どんな「デザイン」があるのか、興味はつきない。
最後に、
この場はものすごく「教育的」であると感じた。
世田谷の事例を紹介したのは土肥研の大学院の学生で、よく調べ、考えられたプレゼンだった。会場に若者が多かったことも、そう感じた一因かもしれないが、若い時にこのような知と実践の最前線にいられる学生は羨ましい。
このことが幸運であるということを彼らが実感できるのはもう少し先かもしれないが。
もちろん、「大人」である自分にとっても新しい視点と考える切り口が得られたすばらしい学びの場だった。]]>
地形の魅力
http://basyoken.exblog.jp/25456244/
2016-07-17T12:05:00+09:00
2016-10-02T08:28:20+09:00
2016-07-17T13:32:59+09:00
phoosuken
日々雑感(F)
最近、仕事で横浜に行くことが多い。(今は横浜を通り越して大和市のファミレスでこのブログを書いている)
横浜は地形が複雑で、起伏に富んでいる。
UDの視点からは問題だが、人が住む上で本来起伏は悪いことではない。
その昔、ここに住み着いた人々は高いところから見晴らしが良い一方で、中腹なら身を隠せる。
水や植物の多様性もあったはずだ。そういう地形をうまく活かしながら、長く住み続けてきた。
地形が人々の意識に影響を与えないはずがなく、日本の起伏に富んだ地形と温帯モンスーンの湿潤な気候が私たちにどう影響してきたか、素人ながらちょっとした思考の遊びとして想像を広げてみるのも面白い。
⑴土木的センスが高い
地形が複雑な場所に住み農業を営むためには、地形を読み、活用する技術が発達しただろう。
⑵仲間うちのルールの厳守
小規模な水系、沢に沿って集落が発達しただろう。水を使う仲間の間では使い方や分配のルールが厳密になる。
⑶排他性と組織的コミュニケーション能力の不足
ひとつの水系や沢は小規模の範囲で完結し、他のエリアとのコミュニケーションは基本的には少なくなる。逆に自分のテリトリーは厳密に守る必要がある。
⑷勤勉で粘り強い性格の醸成
地形が急峻で降水量が多い地域は自然災害には弱くなる。自然を畏れる意識が生まれると同時に、自然災害を受け入れて修復、復興を日常のこととして受け入れる意識も生まれただろう。
今のまちの中では、地形を感じることが本当に少なくなった。
先にも書いたが、傾斜や段差はUDまちづくりには解決すべき課題となっている。
しかし、地形の変化はその地域の歴史的背景とも重なって、豊かな個性を生むことも確かである。移動の方法が多様になった現代において、もっと地形をうまく活用し、UDの視点からも対応できるまちづくりが進められたらよいな、と考えている。
写真は相鉄線二俣川駅付近から。相鉄線は谷沿いに走っていることがわかる。駅周辺は再開発が進み、地形の変化はますますわかりにくくなりそうだ。
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ご機嫌まちづくり まち中での出会い
http://basyoken.exblog.jp/25096370/
2016-04-01T09:27:00+09:00
2016-04-01T09:30:05+09:00
2016-04-01T09:26:46+09:00
phoosuken
未分類
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打ち合わせに急ぐ私が乗ろうとしたタクシーの運転手さんは、路肩に駐車したまましばらくの間携帯電話で話しをしていて、私に気づくのが遅れたようで
「申し訳ありません、離れた息子から久々に電話があったので」
と言って、タクシーのドアを開けた。
「お客さん、建築関係の方ですか?」
移動中に、職業を尋ねられた。
「いや、建築ではなく、まちづくりの仕事をしています」
私が持っている大きな図面用の筒を見て、そう思ったらしい。
「お客さん、最初からずっと今の仕事をしてきましたか?」
「いや、もとはデザインの大学を出たんですけど、仕事はちょっと変わったところに入りました」
「でも、大きく言えば、同じ方向ですよね」
「まあ、そうですね。」
「挫折なく、きたんですね」
「挫折ですか? いやあそんな順調というわけではないです。途中止めようと思ったこともありますよ。でも、結局この仕事でやってます。」
タクシーの運転手さんはいろんな人を見ている。私をなぜか、しっかりした職業の人と思ったそうだ。
「さっき電話していたのは、息子なんです。大学生なんだけど、ちょっと挫折しちゃったみたいで。久々に向こうから電話があったので、すみませんでした」
「息子さん何をやっていらっしゃるんですか」
「京都で大学生をやってます。数学が得意で、大学に入るまでは全国でもトップクラスの成績でした」
「優秀なんですね。大学はどちらですか」
「京都大学です。でも、大学に入ったら上には上がいる。数学者になりたかったのですが、自分には無理ではないかと思い始めたらしいです」
「すごい話ですね。運転手さんも何かやってらしたことがあるんですか」
そんな優秀な息子さんがいるタクシーの運転手さんとは何者だろうか、と思って聞いてみた。
「実は私も以前北海道大学で数学を教えてたことがあります。大学をやめて小さな商社をやってましたが、リーマンショックを機に、まだ体力があるうちにと思い、会社をたたみました」
「ほお」
「小金があるので、いつか事業をと思っていたのですが、タクシーの運転手も真面目にやってれば食べていけます。気が付いたら10年運転手やってます」
「なんかすごい話ですね」
「私も模試レベルでは全国でトップとったこともあります。でも数学者になるのはレベルが違います。息子は私よりも数学のセンスはあると思うのですが、難しいみたいです」
そんな話をしているうちに、目的地に到着したので、お金を払ってタクシーを降りた。
まちの中にはまたまだいろんな楽しさが溢れている。
たまたま隣に居合わせた人、飲食店で相席になった人、バス待ちをしてている人。海外に行くと、気さくに話しかけてくる人が多い。
本当は、短い時間でも知らない人との会話を楽しめると良いのだけど、なかなかうまく話せない。面白い話ができる機会を失しているかと思うとちょっと残念に思うのである。
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ご機嫌まちづくり まちづくりの中の時間軸
http://basyoken.exblog.jp/24664053/
2015-11-12T08:52:00+09:00
2015-11-12T08:53:06+09:00
2015-11-12T08:51:47+09:00
phoosuken
日々雑感(F)
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だいぶ前のことだが、脳科学者の茂木健一郎さんがTwiiterでちょっとめげていたことがあった。
Facebookのユルさが不満だったが、Twitterのスピード感に疲れてくると、ある意味マイナーな私的領域、概念的なことをゆっくり育むために、facebookの暖かいコミュニティが必要だと感じる、というような趣旨だった。
ああ、よほど嫌なことがあったんだなあ、と思ったが、その時に茂木さんが、Twitterのスピード感を「市場性」という言葉を使って表現していたのが印象的だった。
Twitterが「市場性」でFacebookが「関係性」だ、というような短絡的なことを言いたい訳ではないのだが、この二つの媒体の違いは、少しわかったような気がした。
時々、第三者からものすごい負のエネルギーをぶつけられてめげそうになることがある。
そういう人の特徴は、損得や効率、短時間での成果、勝ち負けにこだわるということにあるような気がする。
攻撃する相手は誰でもよく「私はそう思う」ではなく、「(一般的に)お前はおかしいだろ」というように相手を追いつめていく。
「私」がなくなり、匿名性を帯びてくる。
匿名の関係の中で、短時間のスピードあるやり取りで時間をどんどん凝縮し、即効性のある成果を出していく。
これを「市場性」だというと反論する人もいるかもしれない。
しかし、市場の本質は時間の短縮と「誰がやっても同じ」という普遍性にある。
このようなやり方を刺激的で面白いと感じる人がいることは事実だろう。
でも、人の精神は本来、そういうことに長くは対応できない。
少なくとも私は、そういうことに必要以上のエネルギーを費やしたくない。
もう少し身体的な、その人の顔が見えるところでゆっくりとした「関係性」を組み立て、その中から何かを生み出していくことに時間を費やしたい。
「時間軸」という概念があるかないかは、まちづくりの中でとても重要なポイントである。
学生時代、先輩が後輩におごるという体育会的ルールがあった。(今も吉本はそうらしい)
後輩は先輩になると、またその時の後輩におごる。
これを聞いた私の兄は、なんという非効率なことをやっているのかと言った。
おごってもらっても、どうせ後で後輩におごるなら、割り勘でその場で処理した方がよほど合理的ではないか。
お金の流れだけみればそうだろう。
でも、ある人がおごってもらい、おごられた分を次の世代におごる流れの中には、お金以上にそこに一つの関係性や流れができる。
おごってもらった人と、おごられた人の関係は、時間を超えて別の人につながっていく。
だから何なのだ、と言われても困るが、この流れが大切なのではないかと思う。
ある出来事がその人にどのように影響を与え、どう熟成されて変化していくのか。正直それはどうなるのか誰にもわからない。
まちづくりでもそれは同じである。ある動きが、そのまちにどのように影響を与えるのか、ある程度の仮説はもちろんあるけれども、最初からはっきり成果がわかってやっているわけではない。
あるインプットが、どこかで熟成されて、思わぬ成果となって現れるかもしれない。
インプットから得られる成果を「待つ」ことがまちづくりの基本ではないかと思うのである。
ちょっと理屈っぽくなったけど、このわからなさを「面白い」と思えるか「じれったい」と思うかは大きな違いであると思っている。]]>
続 五輪エンブレム
http://basyoken.exblog.jp/24417391/
2015-08-30T15:57:00+09:00
2015-08-30T16:06:20+09:00
2015-08-30T15:57:42+09:00
phoosuken
日々雑感(F)
>今までのさまざまなインプットの上に、その本人を通して組み直された、最後に付け加えられた「何か」によって人に何らかの影響力を与えること、これがオリジナリティだろう。
と書いて、このこと自体は今でもそう思っているけれど、今回出てきたヤン・チョヒルトのタイポグラフィはちょっとまずい感じだ。
展覧会で見たデザインの印象が強烈に残っていて、それが無意識のうちに今回のデザインのベースになったとしても、最初のデザインを見てから佐野氏のデザインを見ると、加えた「オリジナリティ」が、元のデザインにのみ込まれて、新しい「何か」が感じられない。
積み上げから新しいものが生まれるのはあたりまえだが、新しいものを「創る」ことに対して安易になりすぎていないか、自戒を込めて考えさせられる。
ところで、ヤン・チョヒルトは知らなかったけど、展覧会のチラシやフラッグはカッコイイ。
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五輪エンブレム
http://basyoken.exblog.jp/24411674/
2015-08-28T19:29:24+09:00
2015-08-28T19:29:25+09:00
2015-08-28T19:29:25+09:00
phoosuken
日々雑感(F)
人はすべてこれまでのインプットの蓄積のもとで考えている。
完全なオリジナルはない。
文章を書いていても、意見を言っていても完全なオリジナルなんかない。
コピペは論外として、一度自分の中に取り込まれた情報が、自分の中で融合すると
どこかで聞いた、どこかで読んだ文章なのか自分の文章なのか、時にわからなくなる。
それがあたりまえである。
文章とデザインは違う? そう言われるなら、スミマセン、よくわかりませんと答えるしかないが、
大切なのは完成したその作品として何を伝えるか、何が伝わるか、だろう。
あえていえば、今までのさまざまなインプットの上に、その本人を通して組み直された、最後に付け加えられた「何か」によって人に何らかの影響力を与えること、これがオリジナリティだろう。
今回の五輪エンブレムと、ベルギーの劇場のデザインは似て非なるものと感じるが、
あくまでも商業上のルールとして議論するならすれば良い。それはそれでルールに従って処理するしかない。
でも、今回のエンブレムは悪くないと思うけど(言っちゃった)。]]>
TUCDメールマガジン寄稿 ご機嫌まちづくり(2)
http://basyoken.exblog.jp/24407658/
2015-08-27T15:22:38+09:00
2015-08-27T15:22:40+09:00
2015-08-27T15:22:40+09:00
phoosuken
日々雑感(F)
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ご機嫌まちづくり (2)まちのトラブル解決策
タイトルとはうらはらに、最後まで読んでも解決策は書いていません。あらかじめお断りしておきます。
ある商店街での話。
そのお店は輸入物のしゃれた小物を扱っていて、店長さんはとても自分の商品に誇りを持っている。
隣には昔からの飲食店があって、そこのおかみさんは気のいい人なんだけれど、マイペース。
飲食店のおかみさんは、店の前の歩道の植え込みを掃除したり、小さな鉢植えを置いたり、きれいにしているけれど、長い間に自分のスペースと公共のスペースがごっちゃになってきて、掃除道具を置いてしまう。
いつもきれいにしているのだから、そのくらいは当然だと思っている。
おしゃれ小物の店長はそれが気に入らない。公共のスペースを個人的に使うとは何事か。こっちは商品を厳選して、店構えにも気を配り、お客さんもセンスの良い人がやってくる。人の店から見えるところに掃除道具を置くなんて異常なことだ、営業妨害だ。だからいつも不機嫌。
それで、つい、隣のおかみさんに言ってしまった。「ここに掃除道具を置かないでください。」
それを聞いたおかみさんは切れた。
後から来て何を言う。これまでもずっとこうして来たし、まちをきれいに保っているのは私だ。あんたがまちに何をしてくれたと言うのだ。
それからはむしろ、これ見よがしに掃除用具を置くようになってしまった。
公共の空間を私有化してはいけないというのは正論で、いわばグローバル・ルール。
なあなあかもしれないが、経緯と実績があるというのは、いわばローカル・ルール。
この二つが混在すると、だいたい問題がこじれてくる。
お互いが違う土俵で考えているので交わるところがない。
おしゃれ小物の店長は、クレームとして商店会長にそれを伝える。
「このまちのモラルはどうなっているんだ」「このような状況がつづけば、訴える」
「飲食店のおかみさんにはマナーを伝えないといけない。なぜ地域で話し合わない」
話し合いの場は、町内会だったり、商店会だったりするだろうが、
そのような場をつくり、維持してきたのは地域のコミュニティである。
おしゃれ小物の店長はそういう場を誰かがつくって、維持してきたことにまでは気が回らない。
だから、町内会や商店会には加入していない。ムダだと思っているが、クレームの行き先にはなる。
さらに、口では「地域で話し合ってくれ」と言うが、まさか話し合いの場で
「今までの経緯もあるので、掃除道具を置くくらい目をつぶりなさい」
と言われる可能性があることは全く考えていない。「話し合え」イコール「止めさせろ」である。
仮に、掃除道具が片付けられたとしても、また次のアラが見えてくる。
公共の場を私的に利用している、という根本が気に入らないのだから、当然である。
一方のおかみさんは慣習による「既得権」は絶対だと思っているから、これまた話し合いでは自分に軍配があがらなければならない。
つまり、第三者の裁定によって目の前のことを処理しても根本の解決にはならないのである。
訴訟社会のアメリカなら裁判だろう。部族社会なら族長の裁定があるかもしれない。
でも、それはお互いが「そういう手続きならとりあえず納得できる」という前提があるからできることである。
今の日本では「コミュニティの中で話し合いによって解決すること」そのものが物事の解決の手続きとして「良し」とする人と「嫌だ」という人に別れはじめている。
行政へのクレーマーの激増はそういうことだろう。
町内会も商店街もあえて「話し合い」をしようとしないのは、それを感じているからだろう。
今のまちづくりでは、トラブル解決策として「コミュニティによる話し合い」が無くなり、無くなったままでそれに代わる手法を見い出していないように思う。
コミュニティによる話し合いは「閉じられた社会」の中ではうまく機能してきた。
しかし、善し悪しはともかく、それではやっていけなくなっている。
ひとびとの気持ちは「閉じられた社会」の中でローカル・ルールでうまくできないかという人と、いろんな価値観がある中でグローバル・ルールでクールにいくべきだ、という人に別れている。そして、どちらにしても極端に走る。
だから一度問題がこじれると「より良く解決する」ことがとても難しい。
「今年の盆踊りは騒音の苦情により中止」になってしまう。
これは解決策ではない。
盆踊りを毎年楽しみにしていた人の気持ちはどこにも反映されていない。
解決策は、当然その中間にあるはずである。
おそらく、私は「まちづくり」でそんなことに取り組んでいるのだろうな、とは思うけれども、具体的なアイデアはまだ持てないでいる。]]>
Novel 11, Book 18
http://basyoken.exblog.jp/24391028/
2015-08-22T18:06:00+09:00
2015-08-22T18:06:34+09:00
2015-08-22T18:06:17+09:00
phoosuken
書評
ダーグ・ソールスター、 村上 春樹 訳
ノルウェイについて知っていることはほとんどなかった。ビートルズの曲。村上春樹の小説。福祉国家。オスロ・・・
この小説の中から知ったノルウェイについての新しい知識。
徴兵制がある。鉄道をわりと普通に使っている。地方の収入役は徴税に関して強い権限を持っている。街と自然が近くて、日曜日は自然の中を散歩して、夕方から友人と食事をする。仲間が集まってアマチュア劇団をつくり、仕事が終わると稽古をして年に1回講演をすることがあたりまえのように語られるライフスタイルがある。
主人公のビョーン・ハンセンは男の子一人を残して妻と離婚する。ツーリー・ラッメルスという魅力的な女性と暮らすために。物語の冒頭は、ビョーン・ハンセンがツーリーと別れたところから始まり、ツーリーとの生活を振り返っていく。
ビョーン・ハンセンは今となっては、なぜそれほどツーリーに惹かれたのか思い出せない。「冒険」への脅迫観念という動機が語られるが、ツーリーとの生活は単調なものである。中央の官庁での出世を諦めて、地方の収入役の仕事を得て黙々と仕事をこなし、アマチュア劇団で稽古をする。
いろいろな出来事について、主人公の心の内を淡々と描きながら進み、そしていきなり(と私は感じた)物語は終わる。
この物語は誰の視点で描かれているのだろうか。日本の小説では湿っぽい感じで語られがちな一人称の「葛藤」のようなものが、とてもクールに、突き放したように三人称で扱われていることに少しほっとして、ドキドキしながらも、何というか「安心して」読み進むことができた。もしかしたら古典的な手法なのかもしれないが、文学論に詳しいわけではない私には新鮮に感じらた。
村上春樹の訳者あとがきには「とにかく不思議な小説だというのが、読み終えて本を閉じたあとの僕の偽らざる感想だった。」とある。そうなのか。プロが読んでも不思議なんだ。
村上春樹の翻訳は読みやすくて好きだけど、もしかしたら、村上春樹のテイストが入っているのかもしれない。原文の持つ雰囲気がどこまで忠実に反映されているのかは分からないけれど、どっちでもいいや。
原文で読むことは一生あり得ないし、物語としてとても楽しめたからそれで十分である。とても感謝している。]]>
ご機嫌まちづくり
http://basyoken.exblog.jp/24274710/
2015-07-22T09:53:44+09:00
2015-07-22T09:53:37+09:00
2015-07-22T09:53:37+09:00
phoosuken
日々雑感(F)
<まちづくりとは何だろうか>
このところ、あらためて「まちづくりとは何か?」を考えている。
ハードな「街づくり」はまだ分かるけれど、ひらがなで「まちづくり」という時に人が考える内容は千差万別である。
まちには、いろんな立場の人がごっちゃに暮らしている。
そんな「まち」を、誰がどのように「つくる」のだろうか。
これが当面の私のテーマである。
<まちはいざという時のセーフティーネット>
生まれた場所でずっと住み続けている人がいる。一方で、自分でそこを選んで住んだという人もいる。
日本では幸いなことに「まち」は選んで住むことができる。
なんとなくここが気に入った、と思って住む場所を選ぶことができる。
近くに公園があったり、にぎやかな商店街があったり、雑誌で見た「住んでみたいまち」の上位に選ばれているエリアだったり、選ぶ基準は人それぞれだろう。
でも、お気に入りの場所を選んだとしても、近所の人や地域の人を、個別に選ぶことはできない。
気に入った人とばかりつきあっていくわけにもいかない。
「ご近所」は、何かあったときの運命共同体になる可能性が高いからである。
まちというのは、人の生活の基盤である。良い時ばかりではない。
危機になった時にも、そのまちで住み続けていられなければ、まちの意味がない。
一番わかりやすいのは震災の時だろう。
自分だけ、家族だけでは乗り越えられない危機に直面したときにも、まちはセーフティーネットとして機能しなければならない。
村八分はの残りの二分は、火事と葬儀であることはよく知られている。昔の人も地縁から完全に排除することはしなかったのである。
そのようなまちをどうつくっていくのか。
これは永遠のテーマである。
<ご機嫌度数でまちを測る>
話は少し変わる。
良いまちとは何か、という指標にはいろいろあるだろうが「ご機嫌度数」というものを考えてみた。
そのまちに住む人の、ご機嫌はプラスに働き、不機嫌はマイナスに働く。
その合計点で、まちの「ご機嫌度数」がわかる。
これが、もし数値化できたら面白い。
少数のお金持ちがご機嫌であっても、他の多くの人が不機嫌なまちは、あまり住みたくない。
お金持ちのご機嫌度数が高いかどうかもあやしい。いつも財産を狙われていると考えているかもしれない。
ご機嫌も不機嫌も、人に伝播する。ご機嫌度数の高いまちは、さらに度数が高まる傾向にあるだろう。
あれ、何かご機嫌度数が下がってきたぞ・・注意報発生だ。みんなでお祭りでもやろうか。
みんな楽しそうだ。度数が上がってきた。
しまった、「うるさい」って、沿道の人のご機嫌度数が下がっちゃった。
これって「ご機嫌度数」という指標はなくても、結構普段からやってませんか。
<無関心はご機嫌度数を下げる>
人は常にご機嫌ではいられないが、いつも不機嫌でもいられない。
だから、皆ががお互いのご機嫌度を上げるようにして、総体としての度数を上げことが必要だ。
基本は、自分のご機嫌度を上げながら、他の人のご機嫌度も上げていくこと。
人の顔色ばかり見ていることになれば「私のご機嫌度」が下がってしまう。
一人の人が感じられるご機嫌度の上限はたかが知れている。
本質は、食って、寝て、遊んで、働いて、その中での範囲である。
だから、まち全体のご機嫌度数を上げる一番の方法は、突出したご機嫌さんを一人つくるより、
できるだけ多くの人のご機嫌度を全体として底上げしていくことであることは、感覚的には異論がないだろう。
そして、実は、機嫌が良いか悪いかは、基本的に他者との関係においてである。
人は他の人に存在を認めてもらうことでしか、自分の存在を実感できない。
異論がある人もいるかもしれないが、私はそう思う。
一番まずいのは、他者に対する、まちに対する「無関心」だということがわかってくる。
<ご機嫌まちづくり>
まちには生まれたばかりの赤ちゃんから100歳を超える高齢者まで色々な人が住んでいる。
色々な能力や特徴の人が住んでいる。全員がまちのフルメンバーである。
その「ご機嫌度数」を総体としてどう上げていったら良いのだろうか。
TUDCのメールマガジンの場を借りて、こんなことを考えていけたら、と思う。]]>
牧之原市の津波防災まちづくり
http://basyoken.exblog.jp/18273835/
2012-12-20T10:25:00+09:00
2012-12-20T10:26:07+09:00
2012-12-20T10:25:21+09:00
phoosuken
地域情報
ワークショップ形式で議論をしていますが、ネット上のプラットフォームを立ち上げ、SNSを使った議論も取り入れています。
http://c016.co-hints.spigit.com/Page/Home
ぜひ一度ご覧下さい。]]>
対立軸
http://basyoken.exblog.jp/18269169/
2012-12-18T16:41:00+09:00
2012-12-18T16:43:47+09:00
2012-12-18T16:42:47+09:00
phoosuken
日々雑感(F)
でも、元々、そういうつもりで制度設計したのだろうから、たった三回、大勝する政党が行ったり来たりしただけでアタフタするのもどうかと思う。
民主党だって、確かにひどかったけど、せっかく政権交代したんだから、もう少し任せてもいいように思う。結構、みんな堪え性がないんだなあ、と思う。
あわてて中選挙区に戻して、どうするつもりなんだろう。
同じ選挙区に一つの政党から複数候補が出て、お金が飛び交って、地盤の取り合いっていう選挙をやめようとして小選挙区にしたはずなんだけど。
政党側にも問題があるよね。議論の対立軸が良くわからない。
今回いでいえばこんな感じなら、国民的議論になるんだけど。
A:TPP反対、国内産業保護、ものづくりや技術力で競争力強化、消費税10%程度におさえて所得税法人税増税、経済成長率横ばい容認、移民規制は継続し家族政策などで緩やかな人口増、セイフティネットとして地域コミュニティ支援策充実、過疎地対策中山間地保全。
B:TPP参加促進、産業自由化促進、人的流動と競争原理で競争力強化、消費税は必要なだけあげて法人税所得税減税、経済成長率2%程度目標、移民による人口増容認、セイフティネットとして個人への支援充実、都市集中投資。
こうやって考えてみると、対立軸って面白い。
まだまだほかにもアリだし、これは対立じゃないよ、というのもあるかも。
もちょっと考えてみよう。]]>
よしっ!!
http://basyoken.exblog.jp/18236507/
2012-12-07T12:00:15+09:00
2012-12-07T12:00:31+09:00
2012-12-07T12:00:31+09:00
phoosuken
日々雑感(F)
ぐだぐだ
バイトに来ているゆいちゃんは、サッカーやってる女子大学生。とても頭がよくて、作業も早い。
作業を始める前に、小さな声で「よしっ!!」って言って自分に気合いを入れているのがかわいい。
スポーツを本気でやっている人の集中力。たぶん、自分にスイッチを入れる方法を知っているんだろう。
今我が社ではこれが密かなブーム。仕事をするまえに、小さく「よしっ!!」って(かわいく)言って始めます。これが結構効くんだな。]]>
「よこはま市商連」特集 地域商店街活性化法
http://basyoken.exblog.jp/17845381/
2012-08-08T20:06:00+09:00
2012-08-08T20:08:37+09:00
2012-08-08T20:06:16+09:00
phoosuken
未分類
「商店街活性化法」について、商店街の会員向けにわかりやすく解説したものです。
商店街は地域コミュニティの担い手
昨年12月に「石川商店街協同組合」(中区)が横浜市内の商店街ではじめて地域商店街活性化法※1に基づく商店街活性化事業計画の認定を受けました。
「地域商店街活性化法」という名前は聞いたことがあっても、どんな法律か意外に知らないという方が多いのではないでしょうか? 平成21年7月に地域商店街活性化法が公布(8月施行)されてから3年弱、この法律をあらためて考えてみたいと思います。
※1 商店街の活性化のための地域住民の需要に応じた事業活動の促進に関する法律(平成21年7月公布)
地域で頑張る商店街を支援する法律
商店街がおかれている経済環境が厳しさを増す中で、創意工夫をして地域のために頑張っている商店街もたくさんあります。「地域商店街活性化法」は、そんな商店街を積極的に支援する法律です。(平成24年4月現在、全国で102件の商店街の計画が認定されています)
法の趣旨
○ソフト事業も含めた商店街活動への支援を強化
○地域のニーズに沿った空き店舗利用を支援
○商店街の意欲ある人材を育成・確保
○関係省庁・地方公共団体と連携した支援
商店街は地域みんなのためにある
この法律の一番のポイントは、「商店街は地域コミュニティの担い手である」ということをはっきり示したことです。そして、もうひとつのポイントは法律の正式名称にある「地域住民の需要に応じた事業活動」という表現です。つまり商店街は「みんなのためにある」ということを法律で明確にしているのです。
どんな横浜市民のニーズがあるのか
平成19年度横浜市が行った「商店街に対する消費者意識調査」では、これからの商店街にどうあってほしいか、という質問に対して「身近な買い物の場であってほしい」が75.5%でトップ、次いで「暮らしやすい街づくりを進める先導役となって欲しい」38.1%、「子育てや高齢者の生活をサポートする場になってほしい」37.7%と、公共的な役割を担うことへの期待が上位に来ていることがわかります。
活性化事業はハードとソフトの両方
では、具体的な活性化事業とはどんなイメージでしょうか。
法律の施行にもとづき国が策定した「基本方針※2」では、活性化事業になり得るものとして次のような例をあげています。
○高齢者・子育て支援施設の設置や運営
○宅配・買物支援サービスの実施
○防犯施設の設置や防犯パトロールの実施
○アーケード・広場・街路整備
○地域資源を活かしたイベント
○販売施設
○ブランド開発 など
ハードからソフトまで、さまざまな事業の例があることがわかります。
もちろん、これらの事業は「地域住民の需要(ニーズ)」をふまえていることが前提となっています。このような地域住民のニーズに応じた「商店街活性化事業計画」を商店街振興組合や事業協同組合などが策定するのです。
※2 「商店街活性化事業の促進に関する基本方針」(平成21年8月)
新しい取組みへのチャレンジ
これらの取組みは、たとえば地域住民やNPOとの協働で取組むといった、創意工夫が必要です。ここで求められているのは、商業活動と地域活動の融合といえます。地域に役立つ商店街→人が集まる→活性化につながる→さらに地域の役立つ、というサイクルができることを期待されているのです。
そのための支援策
申請された計画を国が認定することで、その商店街に対して、さまざまな支援策を可能としています。
支援策の内容
《資金・税制支援を抜本的に拡充》
★補助金:24年度予算案18億円
補助率最大2/3
★税制措置:土地等譲渡所得の1,500万円
特別控除
商店街内の遊休土地の譲渡を
促進(空き店舗対策)
★融資関連:市町村による高度化融資の新設、
小規模企業設備導入無利子貸付(貸付割合1/2→2/3)
しかし、これらの条件をふまえた有効な事業計画をつくり、実施していくことは容易ではありません。資金、人材、ノウハウ、そして、それをやり続ける意欲が揃ってはじめて、これからの商店街活性化は実現するのです。
地域商店街活性化法では、そのための支援策を用意しています。法律の施行にあわせて設立した(株)全国商店街支援センターを通して、計画策定に対する専門家のサポートなども受けられます。計画が認定されれば、関係補助金の補助率のアップ、無利子融資や税制優遇措置を受けることもできます。
事業計画の認定を受けていない商店街は関係ないの?
以上、地域商店街活性化法を概観してきましたが、多くの商店街にとって、「事業計画」の策定や認可というのはとてもハードルが高く感じられるかもしれません。それなら自分の商店街には関係ないのでしょうか?
商店街に補助金が出る(税金が使われる)のはなぜ?
それは「商店街は地域に必要だ」と思っている市民がまだまだ多いからです。みんなが「商店街なんかいらない」と思えば補助金もなくなってしまうかもしれません。そんな中で、国の法律で商店街が「地域コミュニティの担い手である」と明確に位置づけられたことは、どの商店街にとっても、大きな意味を持っているのです。
お店と市民がいっしょに地域の生活を豊かにする
古くから発達した「市」は人々の交流の場であり、人が集まるところに文化が生まれてきました。
地域の方々に商店街に足を運んでいただき、出会いの場をつくる。これは今でも商店街の基本的な機能だと思います。
たとえ法律に基づく計画策定は難しくても、お店と市民がいっしょに地域の生活を豊かにしていくという考え方は、これからの商店街活性化の方向性を考える上で重要な視点です。地域商店街活性化法は、それぞれの商店街に、これからの地域とのあり方を投げかけていると言えるのではないでしょうか。
石川商店街(アイキャナルストリート)の取組み
石川商店街(中区)は、平成23年12月、横浜市で最初に地域商店街活性化法に基づく事業計画の認可をうけました。この4月には「平成24年度中小商業活力向上事業」の補助事業としても採択されました。
どんなことを計画されているのか、大島重信理事長にお話を伺いました。
2年前から検討をスタート
最初に検討を始めたのは2年前です。本当は昨年事業認可を受けたかったのですが、3月11日の震災の影響で、1年のびてしまいました。
石川商店街の事業計画
1年目から
①昔のまちの写真展示
②ロゴマークコンテスト、愛称募集
2年目から
③石川商店街「商品発掘」(すでにある魅力商品に光をあてる)
④お休み広場整備
⑤歩道の拡幅・バリアフリー化
3年目から
⑥ボランティアによる清掃や花のお世話など
⑦チャリティーマルシェ、地方産品特売
⑧街並み景観対策
4年目以降
⑨各事業の継続、新規開業者へのルール周知・指導など
地元ニーズの把握が基本
まず地域住民のニーズ把握(アンケート)を行いました。そこから出てきたニーズ(歩きやすくゆったりとした歩道が欲しい、商店街に欲しい物がない、など)への対応が計画の骨格になっています。
計画検討は大変だが必要なプロセスだったと思う
検討をはじめて、計画が形になるまでが大変でした。勉強会を開催したり、何度も関東経済産業局に足を運んでヒアリングを受けました。各イベントや計画のひとつひとつについて、実現性、実効性が求められました。
しかし、今思えばそれだけじっくり検討したおかげで、今後5年間の目標や、やるべきことが明確になり、良かったと思っています。
大切なのは商店街内のコミュニケーション
石川商店街では、この計画策定にあたって必要な組合員全員の「承諾書」もすぐに集まり、足並みがそろったのはとても良かったです。ふだんからの商店街内のコミュニケーションが大切だと実感しました。専門家のサポートもありがたかったです。
商店街の「本気」が試されている
取材を通して、商店街の現状の把握と将来を見通した取組みを進める事の大切さを改めて感じました。確かに地域商店街活性化法を活用したこの事業はハードルが高いように感じます。
しかし、本気で頑張る商店街には、とても強力で心強い応援が得られます。まさに今、商店街の「本気」が試されているのです。]]>
茂木健一郎さんの連続ツイートを読んで思ったこと
http://basyoken.exblog.jp/17669665/
2012-06-18T21:46:00+09:00
2012-06-18T21:54:02+09:00
2012-06-18T21:46:36+09:00
phoosuken
日々雑感(F)
Facebookのユルさが不満だったが、Twitterのスピード感(茂木さんは市場性と言っていた)に疲れてくると、ある意味マイナーな私的領域、概念的なことをゆっくり育むために、facebookの暖かいコミュニティが必要だと感じる、というような趣旨でした。
これ、とってもよくわかる気がします。
ああ、よほど嫌なことがあったんだなあ。
時々、第三者からものすごい負のエネルギーをぶつけられてめげそうになることがあります。
そういう人の特徴は、損得や効率、短時間での成果、勝ち負けにこだわるということにあります。
そして、相手は誰でもよく、その人の意見も「私はそう思う」ではなく、「(一般的に)お前はおかしいだろ」というように、正義の皮をかぶって相手を追いつめていく。言い換えれば匿名性を帯びてくる。
匿名の関係の中で、短時間のスピードあるやり取りで時間をどんどん短縮し、即効性のある成果を出していく「市場」的なやり方を刺激的で面白いと感じることもあるでしょうが、人の精神は本来、そういうことに長くは対応できないように思います。
少なくとも私は、そういうことに必要以上のエネルギーを費やしたくない。
もう少し、身体的な、その人の顔が見えるところでゆっくりとした「関係性」を組み立て、その中から何かを生み出していくことに時間を費やしたい。
Twitterが「市場性」でFacebookが「関係性」だ、というような短絡的なことを言いたい訳ではないのですが、この二つの媒体の違いが、少しわかったような気がしました。]]>
多様な人が知り合うことで「まち」に活力が生まれる
http://basyoken.exblog.jp/17519627/
2012-05-09T10:31:48+09:00
2012-05-09T10:31:35+09:00
2012-05-09T10:31:35+09:00
phoosuken
日々雑感(F)
ちぐさ会世話人 福永順彦
私があかね会のことを知ったのは、ちぐさ会の世話人になった平成19年でした。それまで精神障がいのことや、障がいのある人を家族や地域で支援する活動をしている方々のことはさほど意識していませんでした。
私は烏山で「まちづくり」の仕事やボランティアとして10数年かかわってきましたが、いわば門外漢の私をちぐさ会に誘っていただいた理由を、私自身はこう解釈しています。
ひとつには、精神障がいの方々を取り巻く環境や活動と「まちづくり」がかかわるきっかけを作ること、そしてもうひとつは、「まちづくり」の活動自体に、さらに多様性を入れていくことを期待されたのだと思っています。
「まちづくり」とは、ここでは、様々な特徴のある方が「まち」という場で共存し、誰もが快適に暮らすための環境づくりであると定義しておきます。
「まち」には様々な人が住んでいます。しかし、普段私たちはそのことにあまり気づいていません。「障がいがある」ということは、自分はそうではないと思っている人からすると、特別なことと思われています。
もちろんそうではありません。生まれたての赤ん坊からお年寄りまで「まち」に住む誰もが成員として、遊び、働き、何かがあれば助け合い、その人それぞれの生活をあたりまえに営む。それが「まち」の本来のあり方です。
多様性があることで「まち」に活力が生まれます。同質の人だけではだめです。そして、多様性を力に変えるには、知り合うことが基本です。知り合うというのは、あいさつからもう一歩進めて、小さなことでも何かを一緒にすることです。住んでいる人どうしがちょっとしたことでも(たとえば掃除でもお祭りでも)一緒に活動することで、気づきや新しいアイデアが生まれます。
今回「あかね」に寄稿する機会をいただき、お伝えしたかったのはこのことです。
今後ともあかね会やちぐさ会の活動を通して、ひとりでも多くの人が「まち」に関わるお手伝いができることを願っています。
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